白バラの心  No.9


姉が旅立つ直前、気丈さを失わない本人の態度に父は安堵し、主治医に呼び出されはしたものの
今すぐ逝ってしまうことはない、とホテルの部屋に戻りました。
気丈なままの突然の旅立ち、父は最期を看取ることができませんでした。

     
  山形県東根市・後ろが米軍用だった住まい     会津の蔵の前で祖父と



” 2005年11月25日、午後の早い時間。 
父と私は、聖路加病院のガン外来の診察室で医師と向き合い、姉の病状の説明を受けていました。
「今夜か、明日か、明後日か・・・。
 機械でかろうじて命がつながっている状態。スイッチを切れば、すぐに命は終わります。」

その頃病室の姉は、命をむしばみ尽くそうと肺に広がる病と、「負けるものか、まだ死にたくない」と
ベッドの上で壮絶な闘いをしていました。
大きく見開いた、でも何も見ることができない目。ひと呼吸ごとに全身を上下させての苦しく激しい息。
「苦しいか?」と訊ねる父に、『うん、うん』と何度もうなずきます。
そんな時でさえ、人並みはずれた強い意志は、元気に活躍していた時と全く同じでした。
たった1度だけ、なんとか父と私を見ようと力をふりしぼり、見えない目がぐるりと回転しました。
そして、ほんの一瞬、姉と私の目が合ってお互いを確認しました。
かつての魅力的な大きな瞳は、すぐに、見開かれたまま何も見えない状態に戻りました。

床ずれ防止のために看護師さんが体の向きを変えて下さった後、姉が寝やすいようにと
私は枕の位置を直しました。
すると、身動きさえできないはずの姉の右腕がスッと毛布の下から伸びてきて、
片手でグイと枕をつかんで取り出すと、自分の頭の下に置き直し、頭を動かして心地を確かめるのです。
『あんたの直し方では、だめ。気に入らない。』 声なき姉の声に、そう言われた気がしました。
「危篤です」と、つい先ほど医師に告げられた姉の腕の力と素早い行動に私は仰天しました。

姉のつらくて荒い呼吸だけが響く病室で、私は大きな声で姉にいろいろと話しかけ続けました。
「お姉ちゃん、1人でよく頑張ってきたね。全部、自分でやってきたもんね。」
私のその言葉に、姉はゆっくりと、自分で確認するように大きくうなずきました。
『そうよ。私は、人生を1人でがんばって生きてきたの。全部、自分でやってきたわ。』
そのやり取りは家族にしかわからない、姉の人生を象徴するようなものでした。

興味を持ったことにはとにかく挑戦し、並外れた努力と研究であらゆることを自分のものにしていく姉は、
自尊心もまた、非常に強い人でした。
結婚生活も、家事と近所に住む舅の世話、そして自分の仕事は夜遅くにと、時間をフルに使って
ひたすら行動し続けました。
料理も裁縫も得意、草花を育てるのも好きでしたから、理想の家庭像を追い求めていったはずです。
「女の子を産んで、お母さんに喜んでもらいたい。そして、お母さんに木目込みの雛人形を作ってもらうの。」 
仕事とは全く違う、女性としての姉の、もう1つの夢でした。
学問では自分の思うようにならないものはなかった姉は、結婚生活に終止符を打つことにした時、
深く傷ついていました。
そして、こよなく愛していた会津、両親の故郷である会津の古い風土の中で「離婚をした自分」を恥と考え、
親戚を避け、やがて家族の協力をも拒むようになっていったのです。
「そっとしておいた方がいい」と、1人で生きる道を選んだ姉を遠巻きに見守るのではなく、
もっとあたたかな言葉で迎え入れることはできなかったのか。 家族としては今さらながらの心残りです。

無言の姉との会話は続きます。
「お姉ちゃん、青森時代は楽しかったね。」 また大きくうなずきます。 『うん、楽しかった。』
「ブラスバンドにテニス、よく両方がんばったねぇ。」 『うん、でも楽しかった。』
かたわらに立つ父が意外そうな声で、「へぇ、そんなことやってたのか。」
「やだな。お父さんは仕事だけで、なんにも知らなかったんでしょ。お姉ちゃんはフルートをやってたのよ。」
「いや、知らんかった。」
姉は今回はうなずくことなく、耳をすましているのがわかります。 『お父さん・・・』

入院患者の夕食の時間。 看護師さんが姉に声をかけます。
「若林さん、食べますか?・・・とても食べられそうもありませんね。」
姉は何度も首を横に大きく振ります。 『すみません、食べられません。』と言うように。
「いいんですよ。そんなに気にしないで下さい。」と、看護師さん。

病室を出て父と私は話し合いました。
「お父さん、疲れたでしょ。 お姉ちゃんの様子では『今夜』ということはないと思う。
 今夜は私が残るから、ホテルで休んでたら?」
「そうだな。 あの様子ではしばらくはもつだろう。今夜ってことはないな。
 もしかすると、1週間ぐらいもつんじゃないか。」
足が弱って階段の上り下りがつらい父に付き添って地下鉄を往復し、コンビニで夕食のパンを買って、
私は姉が1人で待つ病室へ戻りました。

静寂が広がる夜の病棟。
ベッドの脇の椅子で本を読んでいると、突然、姉の右手がいらつくように動くのがわかりました。
そして、自分の鼻に差し込まれた呼吸器からの管を力任せに引き抜き抜いたのです! 
私は、あわてて立ち上がって管を元の状態に戻しました。
姉は、荒い呼吸のままじっとしています。 『余計なことしないでちょうだい。』
しばらくすると、姉はまた管をグイと引き抜く。 私が元へ戻す。・・・引き抜く、戻す・・・。
根負けした私は、看護師さんを呼び出しました。
「若林さん、これをつけていないと息が苦しくなりますよ。」 『それがあると、かえって苦しいんです。』
「テープで止めましょう。 そうすれば、もう取れないでしょうから。」
姉の顔には、管を固定するテープが何ヶ所も貼られました。
ところが、看護師さんが病室を出るとまもなく・・いったいどこに、そんな力が残っているの?
片手でテープごと管をベリべリとはがすと、姉は放り投げるように置きました。
呼び出しのボタンを押した私に、かけつけた看護師さんが言いました。
「わかりました。そんなにいやでしたら、いいですよ。特に問題はありませんから。」
とうとう、夜勤の看護師さんもさじを投げました。

自分の思うようになって心なしかほっとした表情の姉を見ながら、私は考えました。
「危篤だなんて、きっと先生の診立て違い。死の直前の人間が、こんな強い行動を取れるはずがない。
 こんなに力が残っているじゃないの。たくさんの患者を診ていても、判断を間違えることはあるでしょう。
 1度、仙台に戻って、また出直してこよう。」

水を欲しがる姉に、量が多過ぎないように気をつけながら、ほんの少しずつの水を口の中にたらします。
唇を濡らすと、姉は自分で上下の唇を動かして湿らせるようにします。
わずかな水を、おいしそうな表情でのどを通らせていく姉を見ると、私もほっとしました。
静けさの中で、ひたすらそれを繰り返し、繰り返しする夜。

また、そろそろ水の時間。 私は立ち上がると姉の唇を濡らしました。
一瞬だけ動くかと見えたのに、たらした水は飲み込まれることなく唇の端から落ちてきました。
え?  私はあせって、もう1度姉の口に水を運びました。水はしたたり落ちて姉の顔を濡らします。
苦しげな息をしなくなった姉に向かって、私の口をついて出た言葉は「ばかやろう」でした。
「ばかやろう、ばかやろう! ついさっきまで飲んでたじゃないのよ。」
ちょうど部屋に入ってきた看護師さんが、「あ!」と声を上げると飛び出していきました。
そして、主治医、数人の看護師さんがすぐに走ってくる。
幕は、医師の診立て通りにその夜、閉じられました。

          
       クリスマス研究の原点となった、幼稚園のカマボコ型の園舎
      (元は米軍の建物)ここの日曜学校できれいなカードをもらいました。
       ひとみは2列目・右から4番目、妹は前列・右から7番目


年の離れた私が生まれるまで、かわいらしいひとみは、母から、そして周囲の人々からも溺愛されました。
札幌の大学病院に肋膜炎の手術で母が入院した時、病室のベッドで母と寝起きを共にしました。
「ひとみちゃんがいなくなった!」
忽然と病室から姿を消した愛娘に母は半狂乱、病院は大騒ぎになりました。
目が大きくて愛らしいひとみちゃん、「かわいい、かわいい」と次々と看護師さん達に抱っこされ、
どんどん病室から遠ざかり、病院の庭を散歩していたのです。
会津でも、お人形のような初孫のひとみは、親戚一同から大切にされました。

「だって、ひとみちゃんはなんでも自分でできるから、1人で大丈夫だと思ったのよ。」
東京で仕事をしながら1人で生きる姉と家族との間にすきま風が吹くようになり、
私が言った言葉に対して母はうつむきがちでした。
「お姉ちゃんは、お母さんの愛情を求めていたんだと思う。子どもの頃からお姉ちゃんも、妹の私と同じように
 もっと甘えたかったんだと思う。」
もし私が生まれてこなかったら、姉はそのまま両親の愛情を一身に受け、全く違う生き方をしていたのではないか。
何度か、そんなことを考えたことがあります。

外で様々な活躍をする行動的な若林ひとみとは別な側面を持つ女性。
古風で献身的、いわゆる古いタイプの日本女性。
つくろい物や刺繍・編み物、細かい手仕事も好き、台所に立つのも好き、庭の草むしりや掃除もいとわない。
人を愛すれば激しく、ひたすら一途、自分自身も相手も傷つくことがありました。

でも、本人が最後の日記に書いているように、「もっとああすればよかった、こうすればよかった、と
今思っても、それが私の人生なのだ。」
その通り、人生をやり直せるとしても、きっと若林ひとみは同じ生き方を繰り返し、52才で途絶えてしまった
残りの人生をそのまま続けるに違いありません。
次はこの本を訳したい、今度はこのテーマで本を書こう、そして体調が回復したらもう1度選挙に立とう、
やり残したことがたくさんあるんだから。裁判だって途中だわ。
今年のクリスマスは、どこのクリスマス市を回ろうかしら。なじみのあの骨董店には、もちろん顔を出して。
コレクションもいい加減に整理しなきゃ。ドイツの政治集会は聞いていておもしろいから、また行ってみよう。
・・やっぱり、若林ひとみには、忙しく飛び回る姿が似合います。

     「葬式不要  遺骨は会津の山に散骨してほしい」
走り書きの遺言ですが、希望を叶えてあげることは残念ながらできませんでした。 
今は、仙台の小高い丘の墓地で眠っています。      ”