白バラの心    No.7




小6の夏休みに「日の出・日の入り」の      子供時代から憧れていた                             
記録を作るために毎朝・毎夕上がった     作家の いぬいとみこ さんと
4階建てのスーパーの屋上



2006年11月25日、一周忌の命日に開かれました「若林ひとみを偲ぶ会」には
東京外国語大学ドイツ語科の同期の方々もご出席下さいました。
偲ぶ会での同期生代表の福岡路子さんの追悼文、そして「白バラの心 No.5」でも
ご紹介いたしました、外語大ドイツ語科の同窓会誌「ゲルマニア 第9号」に掲載の、
福岡さんと、同じく同期生の平岡田鶴子さんの追悼文をご紹介させていただきます。

           
      
      「若林ひとみを偲ぶ会」での福岡 路子さんのご挨拶


東京外語大卒業生の福岡路子と申します。
 本日は、外語大の同級生たちとともに出席させていただきました。
 「学生時代にドイツ語をともに学んだ」ということが、若林ひとみさんと私たちの共通の体験と言えましょう。
 彼女はいろいろな分野で活動していましたし、また卒業後の進路は人によって様々ですので、
 彼女との関わりもまた、同級生それぞれ、みな異なっていると思います。
 私自身は学生時代、ほとんどお話をしたこともないぐらいで、親しくはありませんでしたが、
 彼女は当時から優秀で、非常なバイタリティーを備えた方でした。

 この年代のネットワークが途絶えることなく、年に何度かクラス会が開かれてきたのは、世話をして下さる方たち、
 自発的な幹事が何人かバトンタッチしつつ、忙しい中を切り回してくれたおかげでした。
 また本日も、旧友の皆が、仕事に忙殺される中を、文字通り明朝ドイツへ転勤を控えた方も含めて
 集まることができましたのは、言うまでもなく、亡き若林ひとみさんの人徳と魅力によるものです。
 去年(2005年)の12月22日には、そういった友人の方々の呼びかけで、外語大クラスメートによる
 「若林さんを偲ぶ会」が開かれました。
 遠方からの参加が不可能だった方、外国駐在中の方々からも、会合の場に電話がかかってきました。
 また、亡くなった彼女を悼むメールが届きました。
 ひとみさんが病気だったことを全然知らなかった方が多く、皆が呆然とする中で思い出を語り合いました。
 今思い出しても、そのときのショックと悲しみが新たになります。 
 この場を借り、学生時代をともにした私たちの、若林ひとみさんを偲ぶ気持ちを、この会にご出席の皆様、
 ご遺族の方々にもお伝えし、つつしんで哀悼の意を表する次第です。

 外語大出身者は海外の仕事が多いためもあって、何年間も会わなくても、ふっと久しぶりにお互いを再発見する
 ことがよくあるもので、若林さんと私も、そのようにして、何の違和感も遠慮もなく話をするようになりました。
 と言っても、ほとんどがお互いの仕事場からの電話、結構な長電話のやり取りでした。

 彼女の議員時代、1996年ごろからの話です。
 当時私はドイツ大使館の経済部に在職し、2004年秋に退職するまで、通訳・翻訳・政策調査の仕事をしていました。
 ひとみさんは、議員としての情報収集という目的に限らず、ドイツの社会事情や日独の比較に関心が深く、
 雄弁でもありました。関心の対象も非常に多く、それが矛盾を感じさせないのが、ひとみさん的だと感服していました。
 思い出せるままに並べてみましても、ドイツのクリスマスイヴェントなどの文化活動、環境問題、交通事故と
 その被害者への対応について、犠牲者をなくすインセンティブの国際比較など、また地方自治のあり方について、
 これなどは東京一極集中と言われる日本と、州の独自性が強いドイツとの比較において、ご自身の体験をもとに
 考えを深めていたと思われます。
 日本とドイツは友好国ですから、政府や議会のあらゆるレベルで交流があり、人が往復すれば彼女が指摘してきた
 ような出張費等、公金の無駄遣いが出てくるという面もあります。
 これが彼女との話題になった時、「私はドイツ政府から給料をもらっているし、来日するドイツの要人であれ、外遊する
 日本の政治家であれ、いわばクライアントであって、あえて悪い材料に目を向けることはできない。」と言った覚えが
 あります。 まさに税金の使い道ということについて、インサイダー意識の弊害について、彼女の問題意識に比べ、
 われながらなんとも情けない言動でした。
 それに対する彼女の反応が、別に正論をふりかざすということもなく、ごくあっさりしたものでしたから、ますます
 恥ずかしくなります。思えば、彼女は組織の重圧や義理・しがらみを知らないはずはなく、ただ、それに決して
 押しつぶされないし迎合もしない、柔軟性と強さを兼ね備えていたのでしょう。
 (彼女の批判精神に素直に共感することはできたはずなのに残念だと、今になって思います。)

 彼女の形見として大切にしている絵本がここにあります。
    (注: 「おじいちゃん だいすき」 ヴォルフ・ハラント作  1984年  あかね書房 )
 私事になりますが、彼女の忘れられない一面をご紹介したいのでお話します。
 若林ひとみさんとも、クラスメートの誰とも会わなかった時期がありました。
 育児のために仕事を休んでいた1985年ごろ、児童図書館で彼女の翻訳した絵本を偶然手にし、本当に驚きました。
 この度、ご遺族のご好意により、また見せていただくことができた貴重な1冊です。
 私の主人はドイツ人で、ドイツの古い町、リューベックに住んでいた父と母は亡くなって久しくなりますが、
 この本に出てくるおじいちゃんが、ドイツの舅の生きていたころにそっくりなのです。
 顔かたち、歩き方、夫婦や孫とのやり取りも、我が家のことではないかと思ったぐらいです。
 彼女の翻訳したテキストでこの本を読むと、小さかったうちの息子がドイツのおじいちゃんと日本語で話しているのでは
 ないかと、決してあり得ないことなのですが、錯覚を起こしそうです。
 原作者と画家と、そして翻訳者ひとみさんの文章に、地球市民的ファンタジーの豊かさを感じます。

 彼女は多くの人に惜しまれるとともに、今生きている私たちを結びつけ、心の支えになってくれています。
 若林ひとみさんへの感謝をもって、ご挨拶にかえさせていただきます。  

 
         
         「
ゲルマニア」 (東京外国語大学ドイツ語専攻同窓会誌)  第9号
               
           2006年7月15日発行   P98〜P100


 ドイツ児童文学の翻訳家として、西欧クリスマス文化の紹介者として知られている若林ひとみさんが病魔に倒れ、
 昨年11月に亡くなった。彼女の成し遂げたことを埋もれたままにしておくのは惜しまれるので、ここに彼女を知る
 方々と彼女の地元の新聞に掲載された記事を載せ、彼女を偲ぶよすがとしたい。

            
             
 若林ひとみさんの思い出 (1)       平岡 田鶴子

 当時のドイツ語科は定員60名でしたが、50人ぐらいしかいなかったと思います。そのうち女子は12名、
 さらにそのうちの地方出身者は4名でした。彼女は仙台から、私は富山県から来ていて、お互いの下宿
 (この言葉も今は死語になりつつある?)が近いこともあって、私たちはしょっちゅう行き来して、共に夕飯を
 食べたり、泊まり合ったりしていました。そうやって、将来の夢や異性のことなどを語り合って、青春時代を
 過ごしたのです。
  
  今とは隔世の感がありますが、彼女の部屋はたったの3畳で半間の押入れがある他はトイレも炊事場も共同で、
 風呂は銭湯へ行ってました。(ちなみに私の部屋は4畳半で小さな流しと1間分の押入れがありましたが、
 トイレは共同で、もちろん銭湯に行ってました。)彼女はその部屋を学生課で紹介してもらったと言っていました。
 玄関を開けるとすぐに階段があり、それを上がると左側に炊事場、右側に部屋が並んでいて、1番手前の部屋でした。
 テレビもなく、その古い木造の壁を自分で塗りなおしたり、ポスターを貼ったりして、彼女は住んでいました。
 そのポスターには、阿久悠氏の詩が書いてあったことを覚えています。後に彼女は隣の部屋も借りて2部屋に
 住んでいました。
   
  彼女は目のくりくりした、まつげの長い愛くるしい人でした。何事にも一途で、そのころから既に、将来の進路は
 児童文学と決めていて、1度誘われて、児童文学の同人会に行ったこともありました。
  しかし彼女は反面、良妻賢母にあこがれ、料理も上手でした。1人暮らしなのに、外語祭で模擬店をしたとき、
 大きななべを持ってきたので驚いたこともありました。また、当時の人気ドラマ「ありがとう」(石坂浩二と
 水前寺清子主演)を見るためにわざわざ親戚の家へ行ったりするお茶目な面もありました。
  
  大学の世話で、みんなでドイツへ行ったとき、彼女はホームステイ先をザルツブルグ近辺にこだわって、
 そのためペンションオーナーのおばあさんに結構働かせられたようです。彼女を励ますために、
 私は他の友達2人と、お互いのステイ先を訪ねるのは禁止されていましたが、そのペンションへ泊まりに
 行きました。私たちは「モーツァルトの町」というより彼女の好きな「サウンド・オブ・ミュージック」の町を、
 馬車に乗ったり、「魔笛」の人形劇を見たりして堪能することができました。
   
  その後彼女が1年間留学したときも、頻繁に文通していたと思いますが、それらの手紙はどこへ行ったの
 でしょうか。彼女の達筆で独特の字を思い出します。卒業後故郷へ戻った私と彼女はあまりにも別々の人生を
 歩んだため、いつの間にか疎遠になってしまいました。それを回復することもできないうちに、遠いところへ
 旅立っていった彼女のことを思うと、残念でなりません。しかし彼女の残した本は、彼女の子どもとも言えるでしょう。
 その業績を私たちは忘れることなく、彼女を偲び、いつまでも心の中に刻んでおきたいと思います。  」

  
  姉の学生時代の古いアパートへは、私も何度か泊まったことがあります。(卒業後もしばらく住んでいました。)
  姉に連れられて初めて銭湯に入りました。
  お昼を食べに中華料理店へ入りお会計を済ませると、「ここ、高いんだからね」と妹の私に念をおす。
  デザートのケーキを買って部屋に戻り、「これ、高かったんだからね。味わって食べなさい。」と言いつつ皿に出す。
  切り詰めた姉の生活に思いを馳せ、遠くから訪ねて来た妹を歓待するために値の張るものをごちそうして
  くれたんだな、とありがたくチョコレートケーキを少しずつ口に運びました。 
  姉は母に似て、料理・裁縫、なんでも上手でした。実家に帰った時は、よくケーキを焼いていました。 
  
  私が高校生の時、夏休みの家庭科の宿題で「ろうけつ染め(絞り染め)」の作品作りがありました。
  まもなく休みが明けるのに宿題を仕上げようとしない妹をみかねて、姉は腕まくりをすると、お風呂場で自分の手を
  藍色に染めながら作品を作ってくれました。 「なんで私がこんなことしなきゃいけないのよ!」と怒りながらも。
  ぐうたらな妹は「ありがとう・・」と頭を下げ、りっぱな絞り染めが出来上がってほっとしたものでした。
  姉の留学中は、私も頻繁に手紙のやり取りをしました。そう、実家の押し入れのどこかに入っているはず。
  私の手紙を読んだ姉から、「あんたの文章、まぁまぁおもしろいわね。」と感想を言ってもらえました。
  これが、姉から私への唯一のほめ言葉だったかもしれません。

  


               
 若林ひとみさんの思い出 (2)      福岡 路子


 卒業後の何十年間かお互いに何をしてきたか知らなくても、久しぶりに会ったとたんに話が弾んで楽しいのは、
 外語大で学生時代を過ごしたおかげです。
  
  彼女とは昔から親しかったわけではなく、この近年になってお付き合いをするようになったので、私が知るのは
 区議会議員だったころの若林ひとみさん。折々のクラス会はとても楽しみで、「出席しましょうよね。」と声を
 かけ合ったものですが、どこかへ一緒に行ったり2人で会ったりすることはなく、いつも電話で話をしていました。
 ひとみさんの、よく響く声を思い出します。「ねえ、○○○の×××はでしょ。私は・・・だと思うのよ。」と始まるたびに、
 今度は何事だろう、いったい何を怒っているのだろう、と身構えました。彼女は、もともとオープンな情報と
 客観的論拠以外は見向きもせず、大筋をつかむとすぐに行動しました。キーワードがたくさんあり、
 「缶ビールと瓶ビールと廃棄物」「エアバッグと自動車保険の割引」「交通事故犠牲者と遺児への手当」
 「がん検診(受診)は権利じゃなくて社会人の義務」などなど、彼女の視点と関心を反映するものでした。

  そして、「ドイツのクリスマスイベントを日本で」と。日本のクリスマスは商業主義に毒されているし、宗教的背景の
 ちがう日本で、クリスマスとカーニバルの区別もつかないばか騒ぎをするのはなぜだろうと言ったところ、
 彼女は「うふふ」と笑い、クリスマスの美しさを全く別の観点から話してくれました。
  彼女の本、「クリスマスの文化史」の著者プロフィールには区議会議員の経歴が入っていないことを不思議に
 思ってきいてみると、本の内容とは関係がないから、という返事でした。「貴女のエレメントの1つとして、
 知らせたほうがよい」と私が言ったのは、彼女の多様な活動の数々に何の矛盾も感じなかったからです。

  新しい住居からディズニーランドの花火が見えることを喜び、木や草花を育てたいと語った彼女。
 義侠心を行動の軸に、愛するものたちに心を注ぎ、生きる楽しさを分かち合う人でした。  」