白バラの心   No.5

2004年12月発行の 「クリスマスの文化史」 (若林ひとみ著 白水社刊)で編集を
ご担当下さった稲井洋介さんは、若林ひとみにとって東京外国語大学ドイツ語科の先輩でも
いらっしゃいます。
稲井さんが外語大の同窓会誌にお寄せ下さった追悼文をご紹介させていただきます。


 
     「ドイツの姉」と慕ったマリアンネさん    初めてのドイツはペンションにホームスティ

       
       ゲルマニア
  第9号 (P101〜104)
  
       ゲルマニア会(東京外国語大学ドイツ語専攻同窓会)会誌
                2006年7月15日 発行

            
             「白バラ」は散った  

                     稲井 洋介  (株)白水社 勤務

 
 本誌編集のお手伝いに徹しようと決めていたが、拙筆をとることにした。
 2005年11月、若林ひとみさんが亡くなった。享年52歳だった。
 ぼくとは著者・編集者の間柄であり、またメル友ならぬ「ガン友」であった。

 知り合ったのは20年も前か。ぼくより5年遅い77年の外語大卒だから、もちろんそれまで面識はなかった。
会うきっかけはなんだったのか、覚えていない。名前のとおり瞳の大きく美しい、活発そうな人だった。
大学卒業後、外資系銀行や出版社に勤務した後、フリーで通訳やライターの仕事をしていたとは後年知った。
お会いした時、1冊の訳書を頂戴した。表紙には H・フィンケ著 『白バラが紅く散るとき・・・ヒトラーに抗した
ゾフィー21歳』(講談社文庫) とあった。奥付にはすでに2、3の著訳書が記されていた。
 その後、2、3年に1度、神田に来られたついでにぼくの勤める出版社(白水社)に立ち寄ることがあった。
 彼女はドイツの出版事情、とりわけ児童書についてはじつに詳しかった。その頃ぼくは語学書やエルンスト・
ブロッホなどのドイツ思想、白神山地の保全運動にからむ本などに携わっていて、彼女とは接点がなかった。
が、その話にはしばしば啓発された。また、彼女に助けられることもあった。友人から翻訳出版の依頼が
あったものの、出版傾向が異なるので白水社では無理なとき、彼女の口利きによって別の社から出して
もらったこともある。人のために一肌脱ぐことをいとわぬ方だった。
 
 クリスマスにまつわる本が出せないか、と申し込みがあったのは、12、3年ほど前のことだった。
話を聞けば、それは本格的な文化史であった。1年後の脱稿を確認しあった。
 しかし実際の脱稿は、約束からおよそ10年後の1昨年(04年)春だった。
 どうしたのか。なぜそんなことになったのか。
 
 彼女は「文化」的な活動から「政治」の世界に入ったのだ。彼女は文京区議会議員になったのだった。
 クリスマスの本の企画が正式に決定してからほぼ半年後、若林さんは無党派で立候補した。上位当選。
立候補の意を固まらせたのは、いわずと知れた政治の、行政の腐敗だった。バブルがはじけて庶民は
四苦八苦してるというのに、豪華な区庁舎は新築するわ、巨大区民ホールは建てるわ、手当てをもらって
議員は海外「視察」するわ、のやりたい放題だった。これに彼女は我慢ならなかった。だから彼女は立った。
既成政党は当てにならなかった。
 多くの市民も彼女と同様の怒りは感じていただろう。彼女の思いは彼らの思いだった。違いは、声を、
現実に出すか出さないかだった。
 若林さんは、1人でもいいからくさびを入れようとした。(ぼくに出来るのは、見守ることだけだった。)
 議員になってからも彼女は異色だった。まず、不必要かつ不当な議員特権を自ら返上した。そして他の
議員にも働きかけた(当然無視されたけど)。毎月、議会ニュースを自ら書き、印字し、区民に配布した。
克明な議会報告だけでなく、議員の立ち居振る舞いなども活写した。議場を出ると、袖口に金のブレスレットを
ちらつかせながらきわどい言葉を投げかける与党議員、ニヤついて懐柔しようとする野党議員、
そんな人間を「指弾」するのではなく、ウィット、ユーモアを交えながら区民に知らせた。
が、毅然としていた。公式と非公式とが、人間の表側と裏側とが、連続していた。 
 
 彼女の中の、何が、どんな精神の泡立ちがそうさせたのだろう。あるとき、「やっぱり会津の水を飲んだ
ことがあるからかもしれない」と言った。詳しいことは忘れたが、仙台の高校に進むまえに、会津で幼少時を
過ごしたことがあるという。
 そうかもしれない。そしてぼくは、もうひとつ、彼女にあっては「文化」と「政治」とがそれぞれ別の領域なの
ではなく一つながりになっていたのだ、と考える。文京区民として毎日暮らすことと、読書し研究し、仕事を
すること、そして政治という枠組みを自分のこととして考えることが。

 留学中の81年、彼女は前述の『白バラ』の原書に出会った。訳者あとがきには、こうある。
「そして、読み進むうち、21歳の若さで断頭台の露と消えた生き方はもちろんですが、それ以上に、
 1人の女性としてのゾフィーそのもの・・・感受性が強く情感豊かで、いったん思い込むと一途になる、
 そんなゾフィーに魅了されました。」 ついでまた、著者フィンケの言葉をこう引用している。
「彼女(ゾフィー)はべつに聖人ではなく、まったくふつうの人間でした。ただ彼女は、当時の多くの人々と
 ちがい、ある特殊な状況の中で、本来ならばみんながしなければならなかったこと・・・非人間的な行為や
 殺りくや戦争に対する抵抗運動を行なったのです。」
 この2箇所のゾフィー像は、ぼくには若林さんの像と重なってくる。

 こんな言葉を書き写していると、67年、ベトナム戦争反対の声が外語大キャンパスでも上がり始めたころ、
ぼくの級友がべ平連の諸君にあびせた声が思い出される。キャンパスの片隅の10名ほどの隊列に対し、
彼は冷笑を浮かべながらこう言ったのだ。 「誰も関心なさそうだね。小気味いいねえ。」
 そう、今でも思い出せる、ありありと。それはたとえ少人数でも自らの良心に忠実であろうとする態度とは
相容れぬものだった。その級友がどのような政治的心情の持ち主だったかは知らない。後年、彼がどんな
職業につき、何になったにせよ、あのときの精神的ベクトル(イデオロギーではない)を変えなければ、
物・人の下にある人間の核めいたものを得ることはできない。そうぼくは考える。

 閑話休題。2期目も上位当選だった。市民の支持は大きかった。そしてそれに比例して、既成政党からの
風当たりも強くなった。たった1人の無党派議員にとって、その逆風はこたえたにちがいない。
そのとき彼女を支えていたのは、「白バラ」たちの最後のビラ、逮捕時に持っていたビラ(ビラといっても、
文庫にして3ページ強の長文)の中の、次のような言葉であったかもしれない。
 「われわれの合言葉はただ1つ 『党と戦え』 である。 (中略) 親衛隊の上級・下級指導者や党に
 おべっかを使う連中の演説会場から出て行くのだ! いかなる脅しの手段にも、(中略) われわれは
 たじろいだりはしない。大事なのは、われわれひとりひとりが、道義的責任を自覚した国家における
 われわれの未来、われわれの自由・名誉のために戦うことである。」
 彼女は首都圏における無党派議員の連絡協議会のような組織作りにも力を入れ始めた。
そう新聞は伝えていた。

 しかし、ますますエネルギーを要するカレツな活動が、健康に害をおよばさぬはずはなかった。
 途絶えがちだった「議会ニュース」のことも失念していた2003年の秋ごろ、若林さんから手紙が
届いたのだった。体調を崩して議員をやめたこと、そして、「もし企画がまだ有効なら、書かせてもらえないか」
との旨が記されていた。
 ご自宅の最寄り駅で会った。乳がんだった。抗がん剤を飲んでいるとのことだったが、予想以上に
元気そうだった。ぼく自身も03年の正月早々、直腸がん手術を受けたが、術後はまあまあだった。
近くの居酒屋で、再開を祝い互いの健康を祈って小杯をほした。彼女もおいしそうに飲んだ。
(ここでぼくは、がんについて多くは語らない。この追悼文の趣旨ではない。)

 翌04年5月に脱稿し、11月下旬に上梓された。(奥付は12月5日刊)。すばらしい内容だった。
(宣伝めいて嫌なのでハショるが)そこには、初めてのドイツ留学(1974年、ベルヒテスガーデン)以来
30年にわたる研究成果がしっかりと詰まっていた。ぼくにはとりわけ、クリスマスツリーとルターの関係、
サンタクロースの服装の変遷史が面白かった。
 クリスマスグッズのコレクターでもあった。キリスト教系の幼稚園に通っていて、園長先生から「きれいな
クリスマスカード」をもらったこと(まえがきより)が開眼のきっかけになったらしい。取材でご自宅を
訪れると、ガラス戸棚や押入れにまで、何百、何千という19世紀末以来のレア物がぎっしり詰まっていた。
日本でも有数のコレクションと思われた。(いま思えば、そのうちの数10点を巻頭のカラ−口絵として
掲載できたことが慰めだ。)

 そして明くる年の夏、重版のための打ち合わせで久しぶりに会った。治療薬のために少々きつそうだった。
が、秋に岩波書店からクリスマス関連本を出すこと、近々ドイツに行ってくることなどを伺ったので、
ぼくの心配は杞憂であろうと考えた。
 11月上旬、ドイツから帰国したと思われる彼女から、電話が入った。声は恐ろしく弱々しく、聞き取り
にくかった。岩波の本が上がったので、一両日に、届くはずであること、2冊送ったので、1冊をHさん
(『文化史』の協力者)に、わたしてほしい・・・・これが「用件」であるらしかった。ことばの合間合間に、
咳き込む声がまじった。異星からの声のようだった。体調を尋ねようとすると、「ちょっと、苦しいから、
電話切るね。」という声とともに電話は切れた。
 2日後、岩波刊、『名作に描かれたクリスマス』が届いた。が、胸騒ぎはやまなかった。
 そして29日、親族の方からファックスが届いた。
 25日、若林さんは亡くなり、葬儀は親族だけですませた、とあった。

 急すぎた。あまりに急に、白バラは散ってしまった。
 たしかに人は、彼女と同じようには行動しえない。ぼくはぼくでちんたらやるしかない。

 直前のドイツ行きの目的を、ぼくは知らない。ベルヒテスガーデンには、彼女が<ドイツの母と姉>と
慕う方がおられるらしいので、お別れに訪れたのか。
 10月のベルヒテスガーデンでは、そしてニュルンベルクでは、クリスマスの準備がそろそろ始まっていた
だろうか。
 クリスマス市の入口にはもう、天使の人形が空高く掲げられていただろうか。
 見上げる若林さんの胸は、大好きなドイツのクリスマスの思い出で幸せに満たされていただろうか。
 天使の人形は、彼女に、「あなたはもう十分に働いてこられたのですよ」とささやきかけただろうか。
 「もしものときは、安心してお眠りなさい」と微笑みかけただろうか。
 ぼくは、そう願う。