白バラの心 No.3

議員としての活動を通してお付き合いのあった方々からお寄せいただいた
メッセージを紹介させていただきます。

  宮城県の塩釜神社              パスポートの写真



富山県の町議会議員をなさっていた方からのメッセージ

 ひとみさんと知り合ったのは私が議員になった年でした。
 ひとみさんと同じ気持ちです。議員の特権意識、厚遇ぶり。
 
 ひとみさんが全国の議員、市民に呼びかけて立ち上げた会。その時に私が、
 第1回の会合の事務局をしていました。いつもファックスで来る連絡は夜中。
 起きてる私もすごい(?)ですが、毎度遅いひとみさんにはびっくりでした。
 意外とファックス送信の音、大きいんですよね。おばあちゃんに聞こえたら・・と、
 ちょっぴり心配した時もありました。1人でいるひとみさんには、夜の方が仕事が
 はかどったのでしょうね。
 第1回の集まり、当日前から泊り込みました。しかし準備が間に合わず、夜中まで
 みんなで会合。ケンケンガクガク。今となっては懐かしい思い出です。

 ご病気とのうわさをお聞きしていたのですが・・、お別れしてから、もう随分な年月です。
 10年以上前のことが、昨日のことのように目の前に浮かんできます。
 ひとみさんの大きな瞳、印象的でした。 
 1度ご一緒に四国に行ってお風呂に入りました。もちろんお部屋もご一緒でした。
 今から思えば、あの時も背中が痛い・・と、四国の愛媛の議員さんに背中を押してもらっていました。
 頑張りすぎて疲れたのかな〜と、単純に考えていましたが。
 
 ひとみさんの残していかれた政治への姿勢、多くの人がいい影響を受けたことでしょう。
 政治から離れた今の私でも、怒ることばかりの昨今です。    」


地方紙の新聞社の方からのメッセージ

 四国の地方紙で18年間新聞記者の仕事をし、現在は新聞社のホームページ関係の仕事を
 している者です。
 私が若林さんと出会ったのは、ずいぶん前のことで1995年から96年にかけてのことです。
 当時、共同通信への出向で自治省担当の記者として、その後、新聞社の東京支社の記者として
 国会や霞ヶ関周辺を取材しておりました。
 実際にお会いしたのは3、4回でしたが、私が取材等で出会った政治家(総理大臣から市長、
 村議まで)の中でも、若林さんには、ひときわ強い印象が残っています。
 その印象とは、「おかしいものはおかしい」と指摘し、実際に行動を起こす実践政治家という側面です。
 私がそれまでに出会ったことのないタイプの政治家でした。

 当時、バブルは弾けたとはいえ、国会や霞ヶ関の各省庁では、依然旧来型の政治が行なわれて
 いました。つまり、投資の効率など考えず、いかに予算を自分のところにぶんどってくるかの勝負。
 その利害や利益を調整するのが政治家や各省庁の主要な仕事でした。今もそうかもしれませんが。
 これは地方の県や市町村でも同じような構図でした。「本当にその事業が必要で、住民のために
 役立つか」という視点で考えれば不要と思われるものまで、「補助金がもらえるから」「有利な起債が
 できるから」といった理由で引っ張ってくる。それが首長や地方議員の政治力というわけです。

 その政治力への「ご褒美」なのでしょうか。地方議員にも市民感覚からすれば、手厚すぎるほどの
 厚遇がなされていました。
 文京区でいえば、豪華な庁舎や和洋室の特別室、月々12万円もの政務調査費などなど。
 若林さんは、それに対して「不要なものは不要」とはっきり指摘し、市民の前に示してくれたのです。
 「おかしいものをおかしい」と感じることができる能力。若林さんにはそれがありました。
 さらに、それを課題として提案し、広く呼びかけて活動を展開していこうというシナリオ能力もあったと
 思います。この辺りはドイツでの生活体験と、翻訳者としてものを書いてきた実績が役立っていた
 のではないでしょうか。
 
 当時の私は、取材対象である首長や地方議員との距離が近すぎて、おかしいことをおかしいと感じる
 能力がすり減っていたかもしれません。疑問を持っていても、それを課題にしていくような心のバネが
 働いていなかったかもしれません。それだけに若林さんの指摘と行動には「目からウロコ」の思いでした。

 本社に帰る転勤が決まった97年の3月。東京での仲間が開いてくれた送別会に若林さんが来てくれました。
 イタリア料理店での食事の後、愛宕山にあるNHK放送博物館に登りました。若林さんは、過労からか、
 少し疲れたような様子でしたが、愛宕山の桜を見ると、ぱーっと表情が明るくなったことを覚えています。
 今から思えば、なぜ送別会に若林さんが来てくれたのか、どうして愛宕山に登ることになったのか、
 まるっきり覚えていませんが、ほろ酔い加減で山を登り、高揚した気分の中で夜の桜を見て騒いで
 笑い合いました。その中で、若林さんも花のような笑顔を見せていました。
 それが、若林さんと会った最後の思い出となりました。
                                改めてご冥福をお祈り申し上げます。 
 」
  

文京区にお住まいの方からのメッセージ

私は、文京区在住で、区議会の各会派に陳情に回った際などに若林さんにお世話になりました。
 若林さんと呑むと、自治体のチェック機能について議論して盛り上がったりしていました。
 
 昨年、若林さんがお亡くなりになったと風の便りに聞き、衝撃を受けておりましたが、詳細を知る術もなく、
 日々の活動の中で、時折「こんなとき若林さんだったら・・・」と思い出していました。

 本日、お手紙を頂き嬉しく思っています。HPも拝見しました。
 若林さんの若い頃のことや、知らなかった面を知り、涙があふれました。
 早速、「白バラが赤く散るとき  ヒトラーに抗したゾフィー21歳」を古本サイトで注文しました。
 若林さんの強さを育んだ本に、私も学びたいと思います。

 この1年間、若林さんが亡くなった衝撃を誰とも分かち合えず喪失感を持っておりましたので、
 思わずメールしました。
 」


富山県の市議会議員をなさっていた方からのメッセージ

『若林ひとみさんを偲ぶ会のご案内』とプリントとされた封書を見て、息が止まるほど驚きました。
 『開かれた議会をめざす会』の立ち上げ時から数年間、遠隔地からでしたが、地方政治を『常識的』な
 ものにしたいと、及ばずながら若林さんたちの活動を手伝いました。

 あれは何年ごろだったか、若林さんが『会』の代表を辞めて他の人になったのを機会に連絡が間遠く
 なりました。その後、思い出してはネットで検索してみたことが何度かありますが、古い情報しか
 見いだせないので、きっと『百年河清』以下の馬鹿げた地方議会に愛想をつかして、政治の世界から
 足を洗ったのだろう、と勝手に思いこんでいました。そして、彼女のためにはその方がいい、と
 思っていたのです。

 当時の彼女に言っても聞き入れたかどうか疑問ながら、あまりに真っ正直に真っ向勝負を挑むのでなく、
 いわば『遊び心』をもって『はすに構えた』活動をしたらどうか、と彼女の足を引っ張るようなことを
 していれば、もう少しゆっくりした人生を送ってもらうことができたのはないかと、いささか後悔の念も
 感じる次第ですが、今はもう、何を言ってもせんないこととなりました。     
 」
 

神奈川県の市議会議員をなさっていた方からのメッセージ

『若林ひとみさんを偲ぶ会』のお知らせをいただいて、驚いております。
 先日『白バラの祈り』のDVDを買って帰ってまいりましたら、ひとみさんの偲ぶ会のお知らせがありました。
 お知らせを読み進んでいく中、ただ、ただ、ただ驚いております。

 以前、『市川房江記念会』の学習会で『私は7万円で議員になりました。』のお話を聞き、文京区で
 開かれた講演会に参加させていただき、お若く、美しく、才能、実行と行動力のある方と感じましたことが
 強く印象に残っております。
 『何で!!』 『どうして!!』という思いです。  無念だったことでしょう。

 数日が過ぎ、『白バラの祈り』のDVDを見ました。以前から関心のあったこととは言え、重い内容です。
                           ご冥福を心よりお祈り申し上げます。     
 
 
 

文京区にお住まいの方からのメッセージ

私の夫は東京外語大の出で、ひとみさんの25年も先輩になりますが、区議ご出馬の折頂いた
 ご挨拶状に感動して後援者の1人になりました。
 ひとみさんは明快な区議会便りや報告書を送って下さって、私達に身近な日本の政治を教えて下さいました。
 私達は夫が外交官でしたので、平成元年の退官まで通算27年の海外勤務をしており、日本社会に接する
 機会があまりなかったのです。折りしも外務省の裏金問題が発覚しましたが、私達はそれを外部から
 目が届かない外務省だけの問題と捉えておりました。
 ところが、ひとみさんの開かれた議会運動によって、それが中央・地方を問わず起きている不祥事とわかり、
 本当に驚き腹が立ちました。
 ただ残念なことに夫は02年に76歳で他界し、私も高齢のため何もできませんので、ひとみさんの遺志を
 継ぐ方が多数出て、辛抱強く活動して下さるよう願うばかりでございます。
 
 私は、次の言葉をひとみさんに捧げたいと存じます。
   −短いお命をかけて大事なことを教えて下さって本当にありがとう。
     お姿はなくなっても、ひとみさんは私達の中で生きているのです。−     」


神奈川県の市職員の方からのメッセージ

若林さんとは、開かれた議会をめざす会や東西自治体会議(プラハ・ベルリン)などでご一緒させて
 いただきました。
 若林さんは、どこまでも『正義』を求め、生きつづけた人でした。
 もっともっと活躍していただかなければいけない人でした。本当に残念です。
                             改めてご冥福をお祈りいたします。  」


文京区にお住まいの方からのメッセージ

若林ひとみさん、
 文京区立保育園の延長保育申請についてご相談した時、お忙しい中にもかかわらず、温かいお言葉や
 申請方法についてのきめ細かいアドバイスをすぐに返していただき、その後も親身になって相談に
 乗ってくださいましたね。
 おかげさまで翌年、私たちの保育園でも遅ればせながら延長保育が実現しました。
 幼い子どもを抱えながら、どのような道筋で区と交渉したらよいのかわからなかった私たちは、
 若林さんの心強いサポートがあってこそ、精神的に苦しい状況を切り抜けることができました。
 そのときだけでなく、今に至るまで、多くの母親・父親が感謝しています。
 
 3年ほど前だったでしょうか。久しぶりにお電話でお話させていただいた時に、これからは若い
 ドイツ文学の翻訳者のために道を広げていきたいとおっしゃっていましたが、いつも他の人たちのために
 それも弱者のために、若林さんは心を砕いてくださっていました。
 若林さんのご遺志、我々のような世代ができるかぎり受け継いで、実現させてゆけるよう、努力して
 いきたいと思います。        本当にありがとうございました。           


茨城県の町議会議員をなさっていた方からのメッセージ

偲ぶ会のお知らせで若林さんのご逝去を知り、大変驚いています。
 『開かれた議会をめざす会』を発足させた当初、賛同して参加したものですが、その時の若林さんの
 やさしさに、女性として親しみを覚えたものです。
 私より若く旅立つなんて、どんなにか悔しい思いをされたことでしょう。
 
 今また、地方は合併や地方分権で議会が閉ざされようとしています。いつになっても変わらない
 日本の議会のお粗末さにはあきれてしまいます。
 今こそ、若林さんのような純粋な議会人に活躍していただきたかったのに、本当に残念です。 


東京都で市民運動をされている方からのメッセージ

10年ほど前、10人ほどの仲間と『市議会ウオッチングの会』を立ち上げ、市議会の傍聴を続けています。
 たまたま、議員の海外視察を追及する若林さんのテレビニュースを見た友人が、テレビ局に問い合わせて
 若林さんと連絡を取り、直接お話を聞こうということになり、若林さんに来ていただきました。
 そのことが契機で『市議会ウオッチングの会』が立ち上がったのです。
 10年前、若林さんからお話を聞かなかったらウオッチングの会は誕生しなかったわけですから、 
 1ヶ月ほど前に毎日新聞の記事を友人から見せられて初めて知り、本当にショックでした。

 毎日新聞に記事を書かれた記者の方にウオッチングニュースを送り、若林さんからこんな風に
 影響を受けた人たちがいたことをお知らせしようかとウオッチングの仲間と話していた矢先の
 偲ぶ会の案内でした。         」
 
 
              みなさま、若林ひとみへのメッセージをありがとうございました。