白バラの心    No.18


2008年12月、横浜で開かれた“ 若林ひとみクリスマスコレクション ”の展示会。
展示会には若林ひとみをご存じない方々も、もちろんおいででしたので、12月14日(日)の
会場でのギャラリートークは、本人の紹介も含めてコレクターとなったいきさつなどをお話いたしました。
当日は冷たい雨が降る肌寒い日でしたが、お集まり下さいましたみなさま、ありがとうございました。

既に経歴などを御存知の方にとっては繰り返しの話になってしまいますが、
ギャラリートークの内容を2回に分けて掲載いたしますので、どうぞご覧下さい。

 
 「
若林ひとみは2005年11月、遺作となりました“名作に描かれたクリスマス”の出版の1週間後に、
 乳ガンのため52才で永眠いたしました。
 姉はその2ヶ月前にも、肺に転移したガンの痛みをこらえてドイツを訪れ、最後のクリスマスグッズの収集と
 執筆のための取材を行いました。
 今日はこれから、“若林ひとみとクリスマス”について、妹の私から話をさせていただきます。

 若林ひとみは3つの顔を持っておりました。 1つは、ドイツ語を中心とした児童文学の翻訳家。
 1980年、27才の時のデビュー作 “なんだこりゃたまご”。
 今も小学校2年生の国語の教科書に掲載されている “あめの日のおさんぽ”。一緒に暮らす
 おばあちゃんと孫の心の交流を描いた作品です。
 読書感想文コンクールの課題図書にもなった “おじいちゃんだいすき”。こちらは、離れて暮らす
 おじいちゃんと孫の心の交流が描かれています。
 そして、2006年に日本でも公開されたドイツ映画 “白バラの祈り”の原作の1つである 
 “白バラが紅く散るとき ヒトラーに抗したゾフィー21歳”。 
    (それぞれ、初版本への本人の走り書きを見ていただきました。)
 この他にも、まだまだたくさんの本を翻訳いたしました。 (会場に本も展示)


       中学生から70代の方まで             “白バラの祈り”の映画のちらし
 
 2つめの顔は、クリスマス研究家。
 “サンタさんからおへんじついた!?”は、世界中の子供たちからのサンタ・クロースやクリスマス、
 トナカイについての質問に、サンタ村の女性記者、ギッテ・ハーゲンが答えるという内容です。
 ハングルに訳され、韓国でも愛されています。
 “サンタクロースっているんでしょうか”という本もありますが、この出版社は、残念ながら今は
 なくなってしまいました。  (2冊の本の1部を朗読)

 もう1つの顔は、東京都文京区の区議会議員でした。
 自分で文章を書いて、支持して下さる方々にお送りしていた“区議会だより”。
 2003年4月発行の最終号は、「体をこわしました。・・・では、みなさん、どうぞお元気で。」という言葉で
 結んであります。
 この3つめの議員はクリスマスと関係がないようでいて、実は、長年のクリスマス研究の集大成である本、
 “クリスマスの文化史”とつながっています。
 若林ひとみが「クリスマスの歴史についての本を書きたい」と白水社の編集者の方に申し出たのは
 1990年代初めのことでした。1年後に原稿を書き上げる約束をしたのですが、実際に原稿が
 でき上がったのはそれからおよそ10年後の2004年。
 いったいどうしてそんなに時間がかかったのかと言いますと、それまでの文学にかかわる仕事を中断して、
 突然議員として活動をすることになったからです。

 議員としての活動にさらりとだけ触れておきますと、2度のドイツ留学時代、地方の政治を担うのは
 住民である、というドイツの町での暮らしの経験から、納得がいかない地方行政を変えるために自分が
 住む街の議員に立候補をしました。
 今では当たり前のことになっている、政務調査費の領収書の提出や議員による高額な海外視察旅行の
 取り止めなど、姉が10数年前に議会で意見を述べた頃は、他の議員からの怒号とやじで発言が聞き取れない
 ほどだったそうです。
 “区議会だよりNo.2”のあとがきに、「『クリスマスの本はいつ出るのか』というご質問をいただきましたが、
 執筆の時間がとれません。」とあります。
 この時、1995年からまたさらに月日が流れて議員として忙しく過ごすうちに、2002年の検診でガンが
 見つかりました。ガンを宣告されて2期8年で議員を辞め、若林ひとみは皮肉なことにやっとクリスマスに
 戻ってきます。
 「あと3〜5年」と告げられた短い命の中で1番やりたいことは何か、と残された自分の人生を見つめた時に
 姉が決めたのは、議員になる前に書こうと思っていたクリスマスの本を出版することでした。
 与えられた命は、ガンが見つかった2002年からちょうど3年間でした。
 10年ぶりに編集者の方に再会し、今度こそ書き上げる約束をしました。 
   「2004年11月17日 稲井氏より 荷ヶ谷駅前にて」 (“クリスマスの文化史” 見開きへの走り書き)
 付箋は本人がチェックした校正部分、しおりはガンの治療を受けていた病院の領収書です。

 では、“クリスマスの文化史”の“はじめに”を読みます。
   「私は、日本基督教団が経営する小さな幼稚園に通っていました。」 (“クリスマスの文化史” 9ページ)
 私たち姉妹が通った、宮城県多賀城市の睦(むつみ)幼稚園。かまぼこ型の園舎は、戦後の駐留アメリカ軍の
 兵舎を譲り受けたものです。
 ここで毎週日曜日、園長先生による聖書のお話と、アップライトピアノの伴奏で賛美歌を合唱する日曜学校が
 開かれました。出席した子供たちは帰り際に、出口に立つ園長先生の奥様の前に1列に並び、きれいなカードを
 1枚ずつ手渡していただきました。順番を待っている間、奥様が束にしてお持ちになっているカードをちらちら
 見て、「あ、あのカードはもう持ってる。今日は別なのがいいな。」などと、キリスト教の精神とはまったく関係なく、
 グリコのおまけを集めるように姉妹でカードの収集に熱中しました。
   「私がもらったカードは全部で112枚。今でも私の宝物です。」 (“文化史” 10ページ)
 この缶に入っているのが112枚の姉の宝物、1950〜60年代のアメリカのクリスマスカード、
 “若林ひとみクリスマスコレクション”の始まりです。
 実は私も、やはりこのカードを保管しています。娘が小学生の時に譲り渡し、今は娘が持っております。


    これが日曜学校でいただいたカード   幼稚園の生誕シーン(ちなみに、腕時計は姉の遺品)

 昭和30年代の幼稚園、12月の学芸会には大きなクリスマスツリーが飾られ、ステージではキリストの生誕劇を
 子供たちが演じました。 (本人の学芸会での写真と、執筆中にローマの神父さんに宛てた生誕シーンに
 ついての質問文などを紹介。  “クリスマスの文化史” 62ページと70ページ)
 幼稚園で生誕シーンを演じたクリスマス劇が、45年後に研究の成果として本になりました。
 また、私たちの母は新しいことを生活に取り入れるのに積極的な人でしたので、家庭でも、クリスマス・ツリーに
 ケーキ、プレゼントが、私たちが幼い頃から毎年用意されていました。 (ツリーの前の姉妹の写真を紹介)
 今ではごく当たり前のことですが、昭和30年代では、クリスマスは外国から入ってきたまだまだ新しい習慣
 だったのだろうと思います。
 この幼稚園は少子化のために数年前に閉園しましたが、カードを渡して下さった園長先生の奥様は、
 80代後半の今もお元気でいらっしゃいます。

 父の転勤のため何度か転校を繰り返した姉は、その中で自分の人生に強い影響を与えて下さった
 お2人の先生に出会います。

 遺作の“名作に描かれたクリスマス”。欧米各国の様々な児童文学に登場するクリスマスシーンの紹介と、
 その解説がされている本です。
 これらのたくさんの本との出会いは、小学校6年生の教室の学級文庫でした。
 担任の女の先生がご自分で選んで本棚に並べて下さった、“メアリー・ポピンズ” “たのしい川べ”
 “クマのプーさん” “床下の小人たち”などを、ひとみは夢中になって読みました。
  (編集者、翻訳家になってから先生に宛てた手紙を紹介・ “名作に描かれたクリスマス” 187ページ)
 母もまた、図書館にせっせと通って本を選び、家の中に欧米の児童文学がいつも置いてある、という環境を
 作ってくれました。姉の心の中には、知らず知らずのうちにヨーロッパの暮らしや風習へのあこがれが、
 子供の頃から根づいていったのだと思います。

 姉の生き方に影響を与えたもうお1人の先生は、中学2年と3年、2年間の担任の男の先生でした。
 国体のサッカー強化選手としても活躍されていたこの先生は、サッカー部がなかった中学校の校庭を
 ご自分でローラーをひいて整備し、ご自分のお給料でゴールポストを購入してサッカー部を作り、
 自分のクラスの男子生徒を強引にサッカー部員にしたそうです。
 自分の目的を成し遂げるためには、校長先生に反旗をひるがえしてでもわき目もふらず突き進むという
 先生の生き方は、その後の若林ひとみの生き方そのものです。
 そうやって生きて遺したものが、地方議員としての改革と信念、たくさんの児童文学の翻訳と3冊の
 クリスマスの著作、そして、これらの貴重なコレクションです。
 お2人の先生との交流は、姉の人生の最後まで続きました。

 子供の頃にキリスト教の幼稚園の日曜学校のカードを集めることから始まり、なぜ姉が、こんなにたくさんの
 ドイツのクリスマスコレクションの収集に情熱を注ぐようになったのか。
 その理由は、中学生の時に観た映画 “サウンド・オブ・ミュージック”にあります。
 “サウンド・オブ・ミュージック”から、道筋はやがてドイツへと続いていきます。
 映画の中のあまりにも美しい風景や街並。いつの日か、自分もあそこへ行ってみたい。あの世界と
 かかわるようになりたい。映画の舞台となった国で話されている言葉はドイツ語です。
 強いあこがれから、姉は大学の進路として迷わずドイツ語科を目標にしました。
 そして、かつて子供時代に自分が夢中になって本を読んだように、今度は自分が、子供達が夢中になって
 読んでくれる本を訳したい。
 姉は児童文学の翻訳家を目指し、大学時代に最初のドイツ留学に旅立ちました。
          (“クリスマスの文化史” 10〜11ページ)

 お菓子のマイスターだった若林ひとみのドイツのお父さん、カール・フレーリヒさんは既に亡くなられました。
 お母さんは今年90才、言葉が少し不自由になられたそうです。
 毎年必ず滞在していたベルヒテスガーデンのフレーリヒさんのお宅には、ひとみの衣類や本、使いこんだ
 ドイツ語の辞書や日本からのおみやげなどが遺されていました。
 闘病中のひとみに折に触れて電話をかけて励まし、回復を信じて教会で祈りを捧げて下さいました。
 ドイツへの移住も考えていた姉にとって、ベルヒテスガーデンはドイツの両親と姉のマリアンネさんが住む
 大切なふるさとでした。
 もう1人の大切な友人、グートルン・ブラウネさんは、本の中に“G”というアルファベットでも登場しています。
 姉の死を知らせたメールの返事に、「去年のクリスマスは、私達家族とひとみが一緒に教会に行ったの。
 そしてクリスマス市で飛行機に乗るサンタ・クロースを見つけて、ひとみのコレクションがまた増えたねって
 大喜びしたのよ。」とありました。
 この方達に会いに行きたくても私はドイツに行くことができずにおりますが、来年(2009年)の春から、
 大学生の私の娘がイタリアへ留学することになりました。留学の条件を、「ひとみ叔母さんがお世話になった
 ドイツの方々に会いに行くこと」にしましたので、来年には、私の代わりに娘がご挨拶に行けると思います。
          (“ クリスマスの文化史” 192ページ)               」

                                                    (つづく)