白バラの心  No.17

2008年12月10日から21日まで、若林ひとみが、生前およそ30年をかけて収集した
ヨーロッパ各国のアンティーク・クリスマスグッズの展示会が、関東学院創立125周年記念行事の1つとして、
横浜の神奈川県民ホールのギャラリーで開かれました。


この展示会は、若林ひとみとは東京外語大ドイツ語科の同級生である、関東学院大教授の吉原高志さんが、
「埋もれさせておくのはもったいない」と学院の記念行事としての企画を提案して下さったものです。
妹の私が吉原さんと初めてお目にかかったのは姉の一周忌、「若林ひとみを偲ぶ会」の席上でした。
その席で、姉の著書・「クリスマスの文化史」の編集を担当された白水社の稲井洋介さんの、
「若林さんのクリスマスコレクションの価値は、はかりしれないものがある。」という話を聞かれた吉原さんが、
後日、仙台へ足を運んで下さいました。
そして、ニュルンベルクのクリスマスショップのドールハウスや、しょいこを背負ったクリスマスおじさんと対面。
この日から、コレクションの展示会へ向けて少しずつ、ゆっくりと、動きが始まりました。

のんびりとした潜伏準備期間と比べると、いざ開催期間や会場が決まってからの短期決戦は、
関東学院のスタッフの方々も私も、「体が2つ、時間も倍は欲しい!」と思う慌ただしさでした。
開会の前々日、引越し用のトラックへ荷物を積みこみ、コレクション達は仙台から横浜へ。
前日の朝6時ごろの新幹線で、私と娘は横浜の山下公園前の県民ホールへ。
関東学院大剣道部のメンバーも集合、剣道部の顧問は吉原先生。
そして午前10時ごろ、ヨーイ、ドン!で作業開始。 準備に使える時間は夕方6時まで。
大きな絵画や彫刻などの美術品と違って、コレクションの1つ1つがとにかく小さく、陳列に時間がかかります。
しかも、吉原さんと私と娘以外は、コレクションを目にするのはこの日が最初です。
「どうしたらいいかわからなかったら、さわらずに尋ねろ」と先生の指示で、剣道部の学生たちが私の元に
何度もやってきます。
娘はドールハウスの陳列を担当。ハウス内の細かな品々を、床にはいつくばって並べていきます。
あっという間に夕方。陳列のためにもう1日、せめてあと半日あったなら、という思いが残ります。
広い会場を見渡せる場所に、若林ひとみの写真を飾りました。
「若林さん自身、自宅に保管はしていても、こうやってコレクションを1度に広げるのは初めてですよね?
 彼女も、そこからご自分のコレクションの展示を見ているわけだ。」
吉原さんの言葉に姉の写真に目をやると、それは妹の仕事ぶりに満足できず、「私が自分でやる!」と
言いたげな表情に見えてしかたがありませんでした。

     
 写真手前のミニツリーもアンティーク         吉原先生は4月からドイツへ

展示会の期間中、若林ひとみとかかわりのあった方々も多勢、会場へ足を運んで下さいました。
多賀城の小学校、青森の中学校、仙台の高校、そして東京の大学、それぞれの同級生の方たち。
アンケートに、「昔、隣の家に住んでいた同級生です。」との記入が。 あら、まあ! 青森時代でしょうか?
「私も多賀城小学校の出身、本に出てくる幼稚園も知っています。ひとみさんの経歴を見て、
あまりの偶然に涙が出てきました。」と、声をかけて下さった来場者。
スイスに駐在中、姉と何度か会ったという外語大の同級生の方は、姉から届いた絵ハガキを見せて
下さいました。
出版社の編集者のお顔もあります。
ひとみが駆け出しの編集者だった若い頃、「自分が子供の時から好きだった、作家の“さとうさとる”さんと
会えるのがうれしい。」と手紙に書き残しています。
「さとうさとるさんは関東学院の出身。学院から見える山並みが、さとうさんの作品のコロボックルが
住む舞台といわれています。」と、吉原先生。
会場でその話を聞いた編集者の方が、「私、さとうさとるさんの担当でした。」
そして、若林ひとみの本を読んで出版社に手紙を出して下さった方たち。
小学生の時に受け取ったひとみからの返事を今も大切にして下さっている20代の方。
「若林先生の生き方を知り、私も夢をあきらめない。」と、これは絵を描くのが得意な横浜の中学生とご両親。
一緒に来て下さった、国語の授業で著名人に手紙を出すことを実践している中学校の先生。
いろいろな方との出会いがありました。
みなさんと言葉を交わしながらふと当たりをきょろきょろと見回したのは、私の名前を「ちゃん」づけで呼ぶ
大きな声が聞こえたような気がしたからです。 「まりちゃん!」
リュックを背負って近づいてくる小柄な女性は、叔母でした。横浜の会場まで2時間かかったといいます。
「まりちゃんが生まれた時に、私が多賀城の家へ手伝いに行ったんだよ。そして、ひとみちゃんの手を
 引いてさ、私が役場に出生届けを出しに行ったんだ。ひとみちゃんの写真を見ていると、そんなことを
 思い出して涙が出てきちゃうね。」

“ドールハウス作家”の名刺を差し出して下さった女性は、姉が収集したドールハウスを、じっくりと時間を
かけてご覧になっていました。
「以前、若林さんと共同で展示会を開く話があったんですが、残念ながら流れてしまって・・。」
あぁ、あれですね。2005年、姉の最後のスケジュール帳にある “クリスマスとドールハウス展”。
「実は私も、若林さんにお願いしてアンティークのドールハウスを2つ、購入したんです。
 1つは海軍学校のドールハウス。もう1つは、教会で発見されたという礼拝シーンのドールハウス。
 これは“博物館もの”だとお聞きました。若林さんが現地で交渉をして、彼女が1つ1つ梱包して日本へ
 送ってくれたんです。」
え? 姉が梱包していたんですか? 今まで私は、細かな部品も非常にていねいに包んであるのを見て、
ドイツの人の仕事ぶりは日本人に似ている、と思っていたのですが。
「いえいえ。ドイツの店に任せたら、もうそのまんまドン、と送ってくるそうです。任せられない、私がやる、と
 若林さんが自分で全部やっていたんです。」
それで納得。古くて繊細な作りの品々が、ほとんど壊れることもなくドイツから日本へ届いていた訳が
わかりました。

衝撃的な思いと共に来場して下さったみなさんの注目を集めたのは、ナチス時代のクリスマス・グッズでした。
あの時代、クリスマスツリーに吊り下げられたヒトラーのミニ写真集、ハーケンクロイツやヒトラーの頭文字が
打ち出されたガラス玉、ゲルマン信仰のシンボルである太陽や樫の木のデザインのガラス玉、などなど。
戦火を逃れたこれらの品々は、ドイツ国内ではナチのシンパとみられるのを恐れる所有者が、表に出すことが
できないまま保管してきたものです。長年の信頼関係から、アンティークショップの経営者が若林ひとみに
声をかけました。  「口外しないと約束するなら所有者を紹介する。所有者宅で自分で交渉を。」
当初私は、このナチス関連のコレクションが、日本人にどのように受け止められるか多少不安がありました。
ですから、くわしい説明を出さないままガラスのショーケースに展示をしました。
非常に貴重な品ですので、時代の証人として見ていただればありがたい、という気持ちでした。
ところが、いざ開場してみると、ナチス・グッズの展示コーナーで質問をする方が次々とおいででした。
「これらのナチスの品は、どうやって入手することができたのですか。普通ではできないでしょう。」
「なぜ、ナチスの品々がこうして日本にあるのですか。」
「あんなものが残っているんですね。すごい。」
日本人が真摯にナチ時代の品々に見入り、熱心に質問をしていたとドイツの元の所有者が知ったら、
どんな風に思われるでしょうか。

            
   ナチ時代のクリスマスカード              ガラスの動物のオーナメントもナチ時代のもの

今回は、あれも、これも見ていただこうとたくさんの品を会場に運び入れたものの、欲張り過ぎて
残念ながらすべてを展示することはできませんでした。
若林ひとみ自身、収集はしたけれど未整理のままだった膨大なコレクション。
これから、また時間をかけて整理をしてまいります。
ご来場下さったみなさま方、本当にありがとうございました。