白バラの心   No.13


若林ひとみは、ドイツへの移住を何度か真剣に考えていました。
30年来のお付き合いがあった、毎年冬にお世話になっていたドイツの方々は
「なぜ、ひとみがドイツへ移住しなかったのか、今でもわからない。」とおっしゃいます。
街のあり方や人々の暮らしぶり、人間性など、まさに姉には「ドイツの方が生きやすかったろうな。
ドイツの方がきっと合っていた。」と思う部分が多くあります。

毎年かかさずドイツへ足を運びながら結局日本にとどまったのは、自分の中の日本的な部分を
捨て切れなかったから、そして政治的な立場からは様々な改革をしたいと批判を続けながらも、
日本という国・日本の様々なものや人を愛していたからだと思います。
実家が仙台にあるといっても子供時代は引越しの連続で、姉が仙台で暮らしたのは高校の3年間だけです。
「仙台に戻ろうかな」と口にしたこともありましたが、仕事の利便性から、長く住み慣れた東京を
離れることはありませんでした。
ドイツや会津への深い郷愁はあっても、もしかすると姉には東京が1番合っていたのかもしれません。
彼女は、身近な者には厳しい一面を見せ、相手に対して求めるハードルが、自分に対するのと同じように
高くなりがちでした。文京区での議員活動も、自分が住む街を愛すればこそだったとも思えてきます。

天に旅立つ2ヶ月前の最後のドイツ旅行。この時たずさえたノートと手帳が、本人の最後の記録です。
執筆のためのクリスマスに関する取材や、骨董品店を回って最後となったアンティークの収集、
また、ドイツの選挙の集会に参加したりと、肺にガンが転移しているのを知らぬまま胸の痛みをこらえて、
休む間もなく相変わらず精力的に動き回ったようです。
達筆なドイツ語と日本語のミックスの文章や走り書きのノート、判読できない箇所もありますし、
抜粋して1部を掲載させていただきます。

 
        
ドイツでの若かりし頃             中学時代の通信簿       
              


      2005.9.13〜27 ドイツ

10:15 成田発   16:15 Frankfurt着  17:15 発  
        飛行機の中が冷房がききすぎで腰が痛くなった。
19:09の列車でWirzhg   駅舎も列車も冷房入りで寒い。 
  WirzからLaudaへの乗り換えの列車が遅れる。
21:30 Lauda   21:47 バスでMergentheimへ  真っ暗で何も見えない。
22:30 ホテル着  小さな町  泊まるほどのこともなかった。

  (アンティークを探し歩いたらしく、6ページに渡り走り書き) 

Puppenstuben (ドールハウス)→19C初まで手作り
私の大きい・・・(判読できず)→1820年ごろ  キッチン1850  ぼうし屋1830ごろ
    ドールハウスはクリスマスプレゼント、クリスマスの時のみ遊んだ。
    19C中ごろ→戸がついた棚は実際もなかった。食器etcは、そのままおいてあった。
    Kさんにあげたたんす→19C中ごろ
私の1st Laden(最初の店)→1890ごろ   ブルーのエナメルなべ→1895ごろ
    1900→ドイツでは恵まれた子どもは全体の20%   (・・・・etc)

14.9.05   ・・・がMarkt(市場)にStand(屋台)を出していた。
15.9.05   Lauda 9:24発  Wrrz10:21→10:43 
          Nu(ニュルンベルク) 11:59 Nuは寒い。

9/14と9/15の夜

    
 体中が痛くて目が覚める。ことに9/15は息もできないほど苦しかった。
     水をのみに起きようとして気を失ったらしい。
     気がついたら、開けて床においていたスーツケースの上に倒れて、
     「苦しい! 苦しい! 助けて! 助けて!」とうめいていた。

15.9.05
   
 SPD(社会民主党)集会   17:30〜21:00   16000人
     バンドが替え歌で対立候補を批判(おちょくる)。  会場で資料を配る。
     市長や国会議員のあいさつ、文化人のあいさつ
     20:00〜20:40  首相のRede(演説)
       子どもづれが多い。 貸切バスで来ている人も。 反対派もプラカードをかかげている。
     TVは20:00台〜23:00すぎ 連日Wahl(選挙)番組
       各党支持の文化人の討論番組  自分と党との関係・党のよいところetc
     1965に開票の実況中継始まる。

17.9.05  
    Firthで CDU(キリスト教民主同盟)→クッキーetc   
          SPD→赤いバラ、ウェットティッシュ を各々配っていた。
     Firthの のみの市は がらくた市

18.9.05
   
(5ページに渡り、クリスマスと選挙に関する走り書き)

   オランダのパイプは北ドイツでも使われていた。
      18〜19Cの家の台所に流し
        クリスマスプレゼントは1930〜35から 1920年代はなし
   チョコレートのサンタは1932ごろから出てきた。昔はチョコは高かった。
      3人の王は1/6に来る。12/24に来ることはない。   (・・・・etc)

23.9
   
元のゲーリングヒュッテにできたホテルで昼食、サラダとワインのハーフボトル
    日本のウィスキーが3本おいてあった。

25.9
   
夕方、オーストリアに夕食に行く。 胸の骨が痛い。

26.9.05
  
 晴れ  9:30に家を出る。
    11:00〜12:45 着陸寸前、小さな丸い虹が雲の上にできて、その輪の中に
                飛行機の影が映っていた。


          スケジュール帳からの抜粋

10月4日   岩波(書店)初稿   1日寝ている
   6日    初稿戻し        夜眠れない
   7日    体調悪い フラフラ
   9日    岩波写真
   10日   岩波準備・写真撮る   BS11で10:00〜ターシャ・チューダー
   13日   点滴
   14日   再校  飛行機とインスブルックのホテル予約
   17日   再校     20日 再校
   24日   病院で抗生剤
   25日   岩波Wさん・目次
   26日   病院     飛行機の予約  スーツケース保険
   28日   救急車でSt.L(聖路加病院)に入院   肺の水を抜く  抗生剤
   29日   楽になる   水1000ml
   31日   肺ほとんど元の形にもどる  水800ml
11月2日   左胸に水→ 急に苦しくなる
   3日    左の水を抜く
   5日    痛くて、苦しくて、体が熱い 七転八倒  1日体がだるい
   16日   右胸の水を抜く→ずっと楽になる   岩波WさんよりTel 見本できる
   17日   骨用の点滴開始
  
 19日   マリアンネに65才カード
   25日   江東区用まとめ (江東区でのクリスマスの講演を引き受けていましたが、この日に永眠
   26日   退院
   30日   江東区
12月5日   出発   マリアンネBD(誕生日)
   9日    ベルリン    11日  ポツダム宮殿
   13日   スウェーデン  14日  ライプティヒ
   18日   バンベルク   21日  ミュンヘン
   24日   教会で洗礼   28日  シュトゥットガルト
1月1日    ニュルンベルク   8日  出発

 
          最後のパスポート              パスポートの裏表紙にはさんでありました


12月からのヨーロッパ出発に向け、パスポートの更新に気をもみ、航空機と各地のホテルの予約、
病院へは携帯用の人工呼吸器の依頼と、それを航空機に持ち込めるかどうか確認するなど、
末期ガンの症状の中で新しい年の計画もきちんと立てていました。
 (2007年12月25日に更新  今日はドイツの空にいるに違いない姉に、メリークリスマス!)