白バラの心  No.1
 
  
3人の方からの、若林ひとみに寄せる文章を紹介させていただきます。


母手作りのワンピースの姉妹
←左の写真は多賀城小学校の正門

小学校の運動会
児童会長のひとみが選手宣誓

校長先生は卒業式後の謝恩会で
「若林ひとみさんのために歌います」と
1曲披露して下さったそうです。

     
    宮城県多賀城市多賀城小学校 6年担任の先生からのお手紙

 喜寿を過ぎた私がひとみさんを追悼するというあべこべは、本当にやるせないことです。
 返送されてきた年賀を気にしつつも、『またぶらりドイツか?』などと薄情に過ごして
 しまいました。この辺り気付けばよかった・・・。
 何の話もせずに、何もしてあげられず、本当に悔やまれてなりません。
 今さら何をとも思いますが、小学校6年生時代もひとみさんの人生の1頁ですから、
 何か責任のようなものを感じて書かせてもらいました。

  ベレー帽のよく似合う、白黒のチェックの服をきちんと着たひとみさん。
 あまり乱れた格好のひとみさんは目に浮かびません。
  何事も自分の問題として主体的にとらえ、納得のいく行き方を追求していた姿勢。
 そして、クラスの委員長としてクラスメートの人格を尊重する信頼厚きリーダーでした。
 担任の私にはなくてはならない存在の生徒でした。
  7月頃のことでしたか、お父様の青森への転勤が決まりました。
 私は、なんともひとみさんを手放すのはつらくて、『卒業は多賀城小学校で。』
 『卒業までここにいなさい。』と無謀なことを言って、お父様は結局単身赴任。
 多大のご協力と犠牲をおかけいたしました。今もって忘れることができません。

  理科に、1年間の日の出・日の入りの位置と時刻を観察し、絵図として記録する
 学習がありました。ひとみさんはその予定時刻前に観察場所に通い続け、
 太陽の頭が出る・頭が引っ込むのを見届け続けました。天候が悪ければ再挑戦。
 見事な東と西の2枚の絵図ができました。
  ひとみさんほど、年間の様々な記録回数の多い子はいません。その苦労は
 いかばかりだったかと、今思ってもいとしいばかりです。

  教師の郡内(当時は宮城郡多賀城町)の研究会で、私に『学級会』のテーマで
 研究授業が課せられました。 
  当日は郡内の先生方で廊下まで満員。学級会はひとみさんの議長役で進行しました。
 授業の細案はひとみさんに渡してはありましたが、議事はひとみさんの裁量で見事に
 進められました。 参会者の感想は、授業案はさておいてひとみさんの議長としての
 力量に感嘆の声。『あれは将来、代議士だな。』との声が聞かれました。

  卒業式の大役、卒業生250名を代表して式歌の伴奏はひとみさん。
 3月とはいえまだ寒い。ひとみさんは早朝、皆が登校する前に学校に来て音楽室や
 講堂でピアノの練習をしたそうです。音楽主任が音を上げ、『ひとみさんにピアノの鍵を
 貸しておいた』と後から聞いて脱帽しました。有終の美を飾って、その後お父様の待つ
 青森へ転校。自分に厳しかったひとみさんです。

  時間を見つけてはよく読書をしていました。読書中断やむなくの時は少々不機嫌な
 顔をしました。今思えば、つまらぬ授業よりも素晴らしい本と向き合っている方が
 どんなにか楽しかったのかしれません。

            ー ひとみさんからの書簡抜粋 −

  1979年  出版社に勤めて2年と数ヶ月になります。以前から本を読んだり、
  絵を見たりしてぜひ1度会ってみたいと思っていた方々にお会いできるのは本当に
  うれしい。 高校の頃から さとうさとるさんや いぬいとみこさんの本が好きで読んで
  おりましたが、はっきり児童文学の翻訳をやりたいと希望を決めたのは大学に
  入ってからです。 私が子どもの本にひかれるようになったきっかけは、と思い起こせば
  小学校6年の時、教室においてあった岩波の”メアリー・ポピンズ”や”クマのプーさん”に 
  あるようです。その他、”チロルの夏休み”等、当時夢中で読んで、その世界に遊んだ
  楽しさ、すばらしさ、感激を今でも忘れることがありません。
  今、私が児童文学とかかわりのある仕事をしているのも、学級文庫にすばらしい本を
  そろえておいて下さった先生のおかげです。あの時、こうした本に出会っていなかったら
  今ごろきっと違う仕事についていたことでしょう。
  出会いというのは、神秘的で尊いものです。 

 『 1984年  ”おじいちゃんだいすき”は2週間前にできたばかりです。
  来年は5冊決まっています。内2冊は岩波と講談社文庫です。
  先生が多賀城小学校の教室に置いて下さった”プーさん”など夢中で読みましたが、
  その岩波で今度仕事ができるというのは、まるで夢のようです。
  来年は私が出版社に翻訳の持ち込みを始めてからちょうど10年になります。
  最初の頃はどこからも相手にしてもらえませんでした。
  あれから10年・・・感無量です。
  来年はグリムの生誕200年祭、ドイツにぜひ行ってきたいです。 』

  1985年 (”おじいちゃんだいすき”が青少年読書感想文コンクールの課題図書に
  選定される)    お手紙を本当にどうもありがとうございました。
  高校の友だちからも新聞で見たと手紙や電話をもらいました。課題図書の威力は
  すごいものです。課題図書もいろいろ言われてはいますが、でも正直言って知らせを
  受けた時は本当にうれしかったです。うれしくてどうしたらいいかわからなかったので
  電話をもらった直後(朝10時)にお風呂に入りました!
  あの本は1人でも多くの人に読んでほしいと思っていましたので、本当にうれしいです。
  河北新報(注:仙台本社の新聞社)でも表紙の写真入りで紹介されました。
  どんな感想文が集まるのか楽しみです。
  明日から10月までドイツに行きます。ドイツでは作家を何人か訪ね、書籍市や
  図書館を見てきます。 』

  書棚にひとみさんの本が輝いて並んでいます。その中に1冊、教科書があります。
 小学2年生の孫が『おばあちゃん、わかばやしひとみ訳で ”雨の日のおさんぽ” が
 教科書にのっているよ。おばあちゃんがよく話をしてくれる、あのわかばやしさんじゃないの?』
 と教科書を持って訪ねて来ました。 
 『え!ほんと?』 そんなこと聞いてもいなかったので疑いつつ見ると、本当にひとみさんの文。
 びっくりし、うれしくなりました。孫には原本を見せてあげました。
  社会性も追求してやまなかった若林ひとみさんの理念を、この本に見る思いがします。
 私の宝物です。

  どんな思いで病床にあったのだろう・・と思うと胸がつまります。
 わずか52年の人生に、文学者として、政治家として、いっぱいつめこんでさっさと
 逝ってしまった・・・。
   しかし、出会いを大切に、それに感謝し、自分の力量を発揮できる場に立ち、成果を上げ、
 人様のお役に立てたひとみさん。それも、ひとみさんの人生であろうと・・・。
 尊敬の念でいっぱいのこの頃です。
                                         平成18年11月18日  」

      
 青森へ引っ越した年、ひとみ中学1年の夏にこの先生からお手紙が届きました。
 「びっくりさせたくて、何も知らせずにねぶた祭に合わせて青森のお宅を訪ねました。
 ところがお留守。お隣の家の方が『会津へ行かれましたよ』と教えて下さいました。
 ああ、残念。1人、群集の後ろで背伸びをしてねぶたを見て帰りました。」

                
  
               小学校の同窓生の方からのメール
                  


 (前略) 若林ひとみさんとは多賀城小学校の同窓生です。中学校の同級生から
 ひとみちゃん(仲間内ではそう呼んでいました)が亡くなったと知らされました。
  同じクラスではありませんでしたが、親友のU君と2人でひとみちゃんに憧れ、M先生の
 音楽クラブ(作曲とピアノ)に入りました。M先生は厳しい指導をされる先生で、生徒はわれわれ
 3人だけでした。 ひとみちゃんとU君は作曲、小生は音楽的才能はまるでないので片隅で
 ピアノを弾いていました。確か赤いバイエルでした。
 長い人生の中で音楽活動はこの時だけです。後は体育会系で過ごしています。
  ひとみちゃんはスーパーレディ、何でもできて、ちょっと太めな別嬪さんでした。
 男の子が束になって対抗しても敵わないので『B−29』とあだ名をつけました。
 しかし、これはスーパーレディに対する畏敬の念もあってつけたのです。
 ひとみちゃんは青森へ行ってしまい消息はそこで消えました。
  高校に通う中ノ瀬橋の手前で、自転車に乗って颯爽と走り去るひとみちゃんの姿を
 見るようになり、仙台に帰ってきたんだと喜んでいました。
  大学を卒業して親友のU君の結婚披露宴の司会を仰せつかり、彼が驚く企画ということで
 ひとみちゃんのメッセージを考えました。 披露宴当日、ひとみちゃんのテープを流しました。
 (中略) 外語大を卒業してドイツ銀行に入社したこと、その後出版関係の仕事をしたこと、
 これからはドイツ童話の翻訳をすること、最後にドイツ語で、結婚おめでとう、幸せに、と
 結んでありました。一同、さすがスーパーレディと納得していました。
  あれから27年が経ちました。今回の知らせを受けてこのホームページを知り、
 ひとみちゃんのその後の素晴らしい、そして壮絶な人生を知りました。
   (中略)    ひとみちゃんのご冥福をお祈りいたします。
                                      2006年12月18日  



大学卒業後まずドイツ銀行に就職したのは、「国費留学をしたのだから恩返しをしなさい」
と大学からの勧めがあり断れなかったからだそうです。
しかし、やはり銀行の仕事は肌に合わないのと、自分がめざす道に進むために
短期間で退職しまし

ドイツの友人宅で朝食
中央が原作者・(何かの)受賞記念パーティー


             出版社の編集の方からのお手紙

 時の流れの速さを痛感しつつ、若林ひとみさんの一周忌を前にペンを取りました。
 お亡くなりになったことを全然知らず、お元気に執筆活動を続けていらっしゃると
 思い込んでおりました。
  今年初めにご連絡いただきましたが、それでも信じられず、思いもよらない時に
 お電話下さるのではないかと心待ちしておりました。
  今、この時代に彼女が存在し、歯に衣を着せぬ発言をし、私たちを引っぱって下さったらと
 思わずにはいられません。
  私は(中略)担当者として20代の若林さんを知り、おつきあいをさせていただいて参りました。
 彼女の行動力、頭脳明晰さ、とりわけ私が感嘆いたしましたのは、日本語の美しさでした
 ドイツ語がこんなにしなやかな美しい日本語に変身するのかと驚嘆したものでございます。
  52歳という若さを惜しんでも惜しみ足りませんが、今はただ安らかにあられることを
 祈るのみでございます。
                                         2006年11月15日  
 」

  
 
 お心のこもった文をお寄せいただき、ありがとうございました。