「 若林ひとみの文京区議会便り No.20 2003年春号 」
ー みなさん、8年間のご支援、どうもありがとうございました。
最期の区議会便りをお届けします。ご存知の方もいらっしゃるかとは思いますが、
体をこわしました。この8年、常に時間に追われていて、いつでもどこでも走っていました。
区役所の廊下でも、駅のホームでも・・。控え室で夜遅くまで、食事もせずに調べものを
していたこともありました。不摂生がたたったのですね。
今までの公約で達成できていないものもあるので本当はもう1期議員を務め、その間に
後継となる新人議員を育てて引退するつもりでしたが、断念せざるを得なくなりました。
私自身無念でなりません。
私の活動には拙い部分もあったと思います。思うように成果をあげられなかったこともあり、
ああすればよかった、あるいは、しなければよかったと後悔や反省することの多い8年間
でした。しかし、皆さんの税金から報酬をもらっているのだということだけは常に忘れずに、
自分にできる精一杯の活動をしてきたつもりです。至らなかった点は、どうかご容赦下さい。
最初の2年間は本当に大変でしたが、その後成果が少しずつ現われてくるにつれ、仕事が
楽しくなりました。この8年で区も区議会も良い方向に変わってくれたと思います。
私自身、人生においてとても貴重な体験をさせていただきました。
皆さん、どうもありがとうございました。 ー
2003年4月16日 発行 全6ページから抜粋・要約
☆ 8年間の主な成果をご報告 ☆
* 屋上緑化が実現した
4月3日、シビックセンター3階の屋上庭園の開園式があった。職員ががんばって作業を
進めてくれた。シビックセンター周辺のビルでも屋上緑化が進んでいる。25階の展望ラウンジ
から見ていると楽しい。これをきっかけに区内で屋上緑化が進むことを願う。
* 議会も含めて、情報公開が進んだ
口で「けしからん」と言うだけで変えられるなら苦労はしない。議員なら、どうしたら実際に
少しでも変えられるかを考え、行動してほしい。
黒塗りだった区長交際費・議長交際費も全面開示となり、使途も若干改善された。
* 教育委員会が活性化した
* 入札が一般公開になった
* シビックセンターの維持管理経費の見直しが行なわれた
新人議員のわたしが1人で取り組むには大きすぎる問題であったが、他の議員からの
協力は得られなかったので1人で調査を行なった。
* 姉妹都市交流が区民主体の事業となった
これまで毎年支払われていた多額の謝礼がなくなった。
* ミス文京コンテストを廃止した
* 道路清掃費が2500万円減額された
* 産業連合会への補助金(年間2300万円)を廃止した
* 旧元町小学校のピアノ4台を救出した
ゴミとして捨てられる寸前に見つけ、3台は区民へ、1台は中国へ。
* 議員の海外視察の廃止
* 行政視察旅費の廃止
* 政務調査費の使途について支出基準を定め、現金出納簿の提出を義務付け
* 議員待遇者会控え室とバッジの廃止・同会の視察の見直し・同会への補助金の減額
* 委員会資料の閲覧が可能になった
* 永年在職議員表彰の高額な記念品代の見直し
都議会に対しての成果
* 都議会議員の海外視察の会計処理が改善、公務以外は議員の私費負担となる
* 公用車やハイヤーの利用が改善、交通費の二重取りを解消
* 政務調査費の清算方法が若干改善
☆ この8年間に都や区を相手に行なった裁判等 ☆
* 裁判 12件 内訳は 勝訴2件、実質勝訴7件(実際に改善が行われたもの)、取下げ1件
そして現在も係争中が2件
* (議員になる前の94年から)都や区に対して行った住民監査請求 約15件
* ( 同上 ) 都や区に対して行った情報公開請求の非公開に対する不服申し立て 約15件
☆ この8年間で1番思い出深いこと
議員になって最初の一般質問で、区が(株)東京ドームと、シビックセンターの建設に必要な
土地の等価交換を口約束で行ったことを発見した。
この8年間で1番うれしかった言葉
「原告(若林)は自分の利益のために裁判をやっているわけではない」という東京地方裁判所
裁判長の言葉。
この8年間を振り返って思うこと
1人でもやれることはたくさんある。孤軍奮闘であっても、住民が支持してくれる限り孤立無援
ではない。
公約でやり残したこと
夜の教育委員会の開催と、委員の区民推薦制の導入(力が及ばなかった。)
☆ 議員を辞めた後も、活動は継続して行っていく。裁判に関しては残念ながら弁護士費用が手元に
十分ではないのですぐには始められないが、用意でき次第始める。
☆ 収支報告書を掲載 みなさん、ご寄付をどうもありがとうございました。
では、どうぞ、みなさんもお元気で!
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
今回が、姉・若林ひとみの議員活動の最後の報告書です。
この議会便りでもお知らせした通り、2005年の最期の入院の直前まで住民訴訟を通して活動を
行いました。その頃は、歩くのも、息をするのもやっとのような状態、自力でペットボトルのふたを
開ける力がなかったと弁護士さんからお聞きしました。
姉が旅立った2005年11月25日から、5年が経ちました。
2010年11月27日